柏を“つむぐ”Webメディア・柏タイムズがお届けするインタビュー。

今回は、現在ヨーロッパを舞台にプレーを続けるサッカー選手・高橋一輝さんへの取材を行いました。

日本屈指の強豪校である流通経済大学柏高等学校サッカー部(以下:流経大柏)に在籍中の17歳で柏を飛び出し、単身スペインへ渡った高橋選手。

そんな「普通の人とは違うレール」の上を走り続けてきた高橋選手の「これまで」と「これから」に迫ります。

高橋一輝 

フィンランドリーグ
FFヤロ所属(2018年12月31日時点)

1996年10月生まれ。小学1年生から小学6年生まで柏イーグルスTOR'82でプレー。その後、中学時代は柏レイソルの下部組織でプレーし、中学1年生の時には世代別の日本代表(U-13日本代表)に選ばれる。しかし、中学3年間で2度の大怪我を経験し、柏レイソルユースへの昇格を逃し、流通経済大学付属柏高等学校に進学。サッカー部に所属してプレーを続けるが、高校3年生の夏に同校を中退しスペインへ渡欧。CDレガネスにトライアル経由で入団し、その翌年にスペイン4部リーグに所属するレアル・アランフェスへ移籍。2017年の1月にはモンテネグロへ舞台を移し、同国の2部リーグに所属するFKイガロとプロ契約を締結。その後にフィンランドリーグに移籍し、現在はFFヤロでプレー。

順調に成長を積み重ねていた少年時代

ーー幼少期から順を追ってお話を伺いたいと思います。生まれが千葉県野田市とのことですが、サッカーは小さい頃から始めていたのでしょうか?

はい、野田で生まれ育ち、今も実家は野田にあります。

地元の幼稚園で練習を行っていた柏イーグルスTOR’82(以下:柏イーグルス)のスクールに通い始めたのがサッカーとの出会いでしたね。

小学校に入ってからは柏イーグルスの選手コースに通い始め、そこからより本格的にサッカーを始めました。

ただ、小学3年生ぐらいまでは野球も同時にやっていて、週末には両方とも試合があるといった日々。

学年が上がるにつれてどちらか一方の試合に行くことが増え、自然とサッカーがメインの週末になっていきました。

高橋一輝_1

ーー小学校高学年くらいからサッカー1本で取り組むようになったのですね。当時はポジジョンはどこをやっていましたか?

自分はずっとトップ下ですかね。サイドをやる時もありましたが、小学3年生の公式戦が始まった頃くらいからは前の攻撃的なポジション、特にトップ下あたりをやっていました。

ーー小学校の時は花野井にグラウンドがある柏イーグルスでやっていて、そこからジュニアユースでは柏レイソルのジュニアユースに所属していたとのこと。どうして「Jクラブの下部組織でやりたい」という気持ちが芽生えたのか、覚えていますか?

(JA全農)チビリンピックという大会があって、そこで柏イーグルスが全国の舞台で優勝。そのときに柏レイソルのスタッフの方から見つけ出していただき、スカウトの話をいただきました。

自分の中で柏レイソルは「地元のJのクラブ」という認識がありましたし、柏レイソルのジュニアチーム(U-12)と対戦したときも〝エリート軍団〟という印象があり、当時からその中でやってみたいという思いを持っていて。

※JFAアカデミー福島に行ってみたいなという気持ちもありましたが、いろいろ考えた結果として柏レイソルを選びました。

※JFAアカデミー福島:日本サッカー協会が推進する中学・高校の6年間を対象としたエリート教育機関・養成システム

また、小学校の高学年頃から選抜メンバーに選ばれて、関東や日本の同年代のトップクラスの選手と一緒にプレーする機会が自然と増えていました。

地域で選抜されたメンバーには、今の柏レイソルのトップチームでやっている選手や、現在Jリーグで活躍している選手とも、当時はたくさん出会えました。

小学校くらいからそういう選手たちとプレーしていていたので、「自分は日本でプロになれなかった」という後ろめたい気持ちが正直ある。だから、「(彼らとは日本での実績において)結構な差がついているな」と自分でも実感しています。

ただ、ヨーロッパでプレーしていると、「日本では培えないサッカー観」を学べていると感じる場面も多く、「力をつけて、いつか当時の選手と一緒に同じピッチに立ちたい」という思いを持っています。

高橋一輝_1

ーー高橋選手は、中学校年代ではアンダー世代の代表にも入っていたんですよね。当時のリストを見ると、現役の選手とかもいて、たとえば井手口選手(現グロイター・ フュルト)とか、松原選手(現清水エスパルス)とかも一緒だったと思います。

そうですね、U-13の日本代表に選ばれたときですね。

その当時、自分の身長は140cm台と小さかったので、松原も含めて「周りの選手がとにかくみんなデカい」「フィジカルの面で大変だったな」と感じた記憶があります。

ただ、その分テクニックやすばしっこさで目立てるという自信はあったので、そういう選手たちがいる中でも「やっていける」という感覚を当時は抱いていました。

中学時代、2度に渡る“大怪我”を経験

そこまでは順調ではあったのですが、そのあと厄介な怪我を2度繰り返してしまい、中学に進学後の3年間のうち、半分以上はずっと怪我人の状態でした。

最初の怪我は、練習中にいきなり右膝が外れた感じだったのを覚えています。今まで大怪我をしたことがなかったので、当初は「大したことないだろうな」と思い込んでいて。

ただ、違和感や痛みが取れずに、当時柏レイソルのコーチがお勧めしていた病院で精密検査をしてみたら、ネズミ(関節遊離体)という病気になっていることがわかりました。

保存治療という形でリハビリに取り組んだのですが、なかなか怪我が治らず、試合に出れるようになるまでは半年間ほどかかってしまいました。

そして、半年ぶりに復帰した練習試合で、相手から悪質なタックルを受けてしまったんです。左の脛骨、腓骨が2本とも折れてしまったようで、そのまま救急車で運ばれたんです。その時は、さすがに心が折れかけましたね。

高橋一輝_3

ーー大怪我を繰り返してしまうと、そのままサッカーキャリアを終えてしまう人も少なくありませんよね。それこそ、期待をかけられた10代の選手の場合であっても、一度の大怪我でサッカー人生を棒に振ってしまう人もいるかと。今のこういう立場だからこそ、怪我との向き合い方や、当時の自分を俯瞰的に捉え直すことってありますでしょうか?

2度目の怪我の時には、立ち上がれなくて意識も失っていました。そのまま練習試合も中止になって、自分の力では移動できなかったので、救急車もそのまま(グラウンドに)入ってきて。

当時ジュニアユースで監督を務めていた渡辺さん(柏レイソルの選手として活躍した渡辺毅コーチ)、松本さん(現柏レイソルGKコーチ)といった人たちも、本当に落ち込んでしまったようで。

仲の良い手塚康平(現柏レイソル所属)に「ナベさん(渡辺毅コーチ)がミーティングの時に泣いてたよ」と後から聞かされて、そんなに自分のことを想ってくれていたんだなと。

その時に、みんなが自分の復帰を楽しみに待ってくれていたことを感じました。

親も自分にどう接すればいいのかで悩んでいたと、今振り返れば思います。

僕としては高校でサッカーを続けようと思ったのも、こうして今サッカーができているのも、それまでの自分の頑張りを見守ってくれた人たちの存在があってこそだなと。

特に父親は応援熱心で、小学校の時は練習や試合に毎回見にきてくれていました。そうした方々の支援があって、ここまで続けられたのかなと思います。

高橋一輝_4

全くチームの戦力になれなかった中学3年生での大きな挫折

ーー怪我が治ってから、中学3年生を迎えた夏にはクラブユースサッカー選手権があり、学年最後の大会である高円宮杯で所属チームは準優勝という成果を残していますよね。

夏の大会、練習には一応参加できていたのですが、怪我明けということもあり、メンバーには選ばれませんでした。その時に、同期でメンバーに選ばれなかったのは僅か2,3人だけだったはず。

ただ、夏の大会のエントリーから漏れたメンバーは、たまたまユース年代の選手と一緒に練習できる機会があったんです。

当時のユースに所属していたのは、秋野央樹(現湘南ベルマーレ)、中村航輔(現柏レイソル)、中川寛斗(現湘南ベルマーレ)という面々。のちにトップチームへ昇格した選手たちと一緒に練習をしていました。

今考えると、これが凄く貴重な経験でした。巧いだけじゃなくて、普段の練習に対する姿勢や、自主練習をどう取り組んでいるかを間近で見ることができ、良いものを吸収できる時間だったなと。「やっぱりプロに行く選手は違う」と、その時に感じることができました。

高橋一輝_5

ただ、その後に同期のメンバーが夏の大会から帰ってきたあとも、怪我の影響があり、自分は満足にはプレーすることができませんでした。

普段だったらイメージでは追いつけていたスルーパスも、足がついていかずに流れていったり。やっていて「体を自分の思い通りに動かせない」と感じる場面が沢山あったり。怪我のブランクにより、かつての感覚を取り戻せない時間が続きました。

ただ、学年最後の大会である高円宮杯でスタッフの方々がいろいろと考えてくれて、(自分は)実際戦力にならないくらいのコンディションだったにも関わらず、メンバーに入れてもらったんです。

結局、出番があったのはトーナメント進出が決めた後の「実質的な消化試合」ではありました。けれども、最後に出た時を思い出せないほど久々な公式戦でプレーすることができ、凄く幸せに感じていました。

そして、チームはトーナメントで勝ち抜き、高円宮杯では決勝に進出。ただ、ベンチから試合を見ていた立場としては、すごく悔しい気持ちでいっぱいでした。

当時は、茂木駿佑(現水戸ホーリーホック)も同じくベンチにいて、お互いに(出れない悔しさからくる)涙を我慢しながら、同じ境遇で試合を見ていました。

茂木も僕同様ユースに上がれなかったのですが、その後ベガルタ仙台のユースに加入し、高校卒業時にはトップチームへ昇格。Jリーグの開幕戦にも出場していましたね。

プロの世界だけの状況を見れば順調そうに見える彼ですが、原体験としては、やはり先ほどの高円宮杯での話のように「悔しい思いをしている経験」があってこそ、その先で活躍できたのかなと思っています。

高橋一輝_6

ーー悔しい思いをしている人でも、その気持ちを元に次へ活かすこと。「このままじゃ終わらない」という反骨心が実を結んだのですね。

上手くいかない時期があったとしても、粘り強く頑張り続けることで、のちに苦境に追い込まれたとしても覆す、そこを乗り切る力として実を結ぶことはあると思います。

ただ、全ての選手がそうではないと思います。中にはサッカーを好きでやっているけど、順調じゃなくなった時に、「サッカーに対して嘘をつく」という人は少なくない。

ちょっと上手くいかないことがあると不真面目になったり、練習をちゃんとやらなくなったりしてしまう。サッカーに正面から向き合わない人は、自然と熱意を失ってしまうことがあるんです。

でも、同期のメンバーが活躍しているのを見て、「自分が試合に出れないことが悔しい」という思いを抱いている選手であれば、いずれ成長し、監督やコーチから見出してもらえる場合もあるかと。

具体的な例を挙げると、エリート街道を突き進んでいった選手でも、プロ契約後に出番を得られずに早々に引退してしまう選手は意外にも多い。そして、プロになる前に「苦い経験」をしてる人の方が、プロで上手くいかない場面に出くわしても「やり続ける能力」「逆境を跳ね返す力」があるケースをよく目にします。

僕も中学時代に出番を失ったことのある人間なので、今も海外で試合に出れなくなったら、「自分が何をしなきゃいけないのか?」を考える経験が生きているように思えます。

高橋一輝_8

ーー中学生時代の怪我の影響もあり、ユースには昇格できなかったと伺っています。その後、流経大柏高校のサッカー部に入ったのは何故だったのでしょうか?

怪我の影響で高円宮杯では満足な出場機会を得られなかったこともあり、自分は柏レイソルユースへの昇格を逃しました。

その時には選択肢として高校サッカーへ舞台を移す必要があり、市立船橋高校サッカー部のセレクションも受験していました。ただ、その試験も落ちてしまうなど、当時は順調にいかないことの方が多かったです。

その後、いくつかの選択肢を並べてみたときに、自分が抱えていた問題意識などを整理し、流経大柏が提供していた環境に惹かれました。

自分は怪我を繰り返していたので、フィジカルの面を強化したいという気持ちが強かったんです。あと、「もっとハングリーな環境に身を置きたかった」という気持ちとも合致しました。

プロクラブの下部組織であるユースの場合、やっぱり〝エリート軍団〟ゆえに、理論を駆使した比較的綺麗なサッカーをやろうとする傾向が強いです。

いろんな面でユースチームは高校サッカーとは逆。高校サッカーは走り込みに信じられないほどの時間を費やしたり、今振り返ればキツい練習が多かったです。

柏レイソルの下部組織の時は「短時間でどれだけ質の高い練習ができるか」にフォーカスしていましたが、逆に高校サッカーは「サッカー嫌いになるんじゃないか…」っていうくらい長時間練習の日々。

そういう環境に身を置けたことは、意外にも良い選択だったなと、今振り返れば思います。

多少理不尽に感じたよう経験は、海外でもっと想定外な出来事が起こる状況から考えれば大したことありません。突然どんなことがあっても、臨機応変に対応できるようになったのは、当時の経験があるからだと間違いなく思います。

そのままレイソルユースに上がっていれば、海外で理不尽なことが起きたり、自分が一方的に不利な展開に追い込まれたりしたら、おそらく悩みすぎてしまったり、ネガティブになってしまったりする可能性が高かったかなと。

流経大柏時代には「これは絶対タイム設定が無茶な走り込みでしょ(笑)」みたいな練習を課されたり、自分としては理不尽に感じる機会の多い場面の連続でしたが、今となれば高校サッカーでプレーできて良かったと心から感じています。

高橋一輝_7

「自分に嘘をついていた」と振り返るダメダメな高校時代

ーー流経大柏での2年半、自分自身の選手としてのパフォーマンスは、期間を通してどのようなものだったのでしょうか?

総合的な感想としては、個人的には全くうまくいかなかった期間でした。

責任は自分にあって、今考えればもっと真面目にやって、公式戦(インターハイやプレミアリーグ)の試合に出るという経験を積みたかったのが正直な思いです。高校時代は、いわゆる「ネームバリューのある大会」に全く出れませんでした。

その頃、反抗期な部分が練習での態度に出てしまい、指導者に対して歯向かってしまう自分がいたんです。

何かを注意されたらすぐにふてくされたり、高校サッカーではダメな例の典型だなと。今思うと、「なんであんな行動をしていたんだ…」というくらい、非常にもったいない時間だったと思います。

当時を考えると、「自分の実力不足を隠そうとしていた」と思う節があります。

柏レイソルの下部組織出身だったのもあって、周りからは「お前は真剣にやれば試合に出られる」と言われたり、そういう「やれば出来るキャラ」みたいな立場に気持ち良くなってしまったというか。

小川諒也(現FC東京)や、大学サッカーで活躍した同期など、当時は力のある選手も多かったのですが、そういうメンバーから言われるのは「お前は試合中に真面目に走れば試合に出られるよ」というコメント。

自分が練習を真面目にやれなかったのは、今振り返ればそういうチームメイトと同じ舞台で活躍できる自信がなかった。「言い訳」を作って、そうした現実から目を逸らそうとしていたんです。

周りからは「本気を出していないだけ」と言われる状況を作り、自分に対して嘘をつき、逃げ道を作っていたのかなと。

そんなダメダメだった高校最終学年の時に、「海外に行ってみたい」というかつての夢を思い出し、結果的に高校を辞め、スペインへ飛び立つことを決めました。

後編はこちらから↓